草津市穴村町の内科・小児科・消化器内科 あなむら診療所

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穴村のもんもん(墨灸)

墨灸(もんもん)

昭和初期における草津で競馬(競馬場跡地、現在のアルプラザ、アヤハディオ)以外で人が集まる場所といえば穴村の『もんもん』であった。祖父駒井一雄は1927(昭和2)年に京都府立医科大学を卒業、その後、灸の効用を科学的に証明し、その普及がみとめられた。

氏は後に鍼灸の研究で京都大学から博士号を授与されている。駒井博士の評判は代々伝わる墨灸を『穴村のもんもん』として更に広め、県内はもとより京阪神や名古屋方面からも多くの患者を集めた。

墨灸(もんもん)

特にこの灸はモグサから採った液を要所(つぼ)につけるだけで熱くないため夜泣きの子供を連れた多くの親たちが集まった。これらの人々は鉄道を利用して守山駅や草津駅からと、浜大津港から太湖汽船を利用して穴村港に来ることが多く、千人を越す日が珍しくなかった。今も『あなむら診療所』に灸點医師駒井徳恆氏が描かせた明治中期の『もんやさん』の門前の風景に米原、彦根、大阪などと書いた提灯を持つ人力車が描かれている。
今でも窓口に申し込めば墨灸を受けることができる。

それにしても、もんやさんの入口に樹齢四百年を越すといわれる松の大樹が大きな枝を広げている。今までに多くの“きよろし(墨灸客)”を見つめてきた巨大な名木で、墨灸の歴史を知る唯一の老松でもある。

墨灸(もんもん)

明治、大正の頃までは、お灸の治療代は玄関脇に置かれた箱に『志』を紙に包んで入れていた。また年の暮れには奉公人が餅つきをして、正月の一番客に大きな鏡餅を、またその日の客には小餅を祝儀として贈られていた。当時多くの“きよろし”の履物の下足番もおられた。大きな重厚な構えの入口の門には出店が出て大変賑わっていた。差し向かいの吉野屋や玉栄堂の商家も人だかりが絶えずに、大勢の“きよろし”で終日賑わった。

出店を出していた家

  • 作さん(横山作次郎)
  • せいど(松井伊三郎)
  • 清九郎(松井清一郎)
  • いそじ(石田礒次郎、馬車の待合所)
  • 留さん(今井留吉)
墨灸(もんもん)
墨灸(もんもん)

(『ひぼこの里 吾名邑(あなむら)』著者 石田 市蔵氏のご好意により引用)

穴村港の賑わい

琵琶湖に初めて蒸気船“一番丸”が就航したのは、1869(明治2)年と言われる。更に1883(明治16)年2月に、大津と志那、赤野井とを結んでいた汽船が志那中の穴村港への寄港するようになった。次第に利用客も増え、穴村の墨灸が栄えると共に、この港に活気をました。魚幸、港屋、大津屋の三軒の茶店が船待ちをする多くの墨灸客(きよろし)を憩わせる。当時としては立派な茶店の軒を連ねていた。特に昭和の初期の乗船客は。何千人という人で三軒の茶店や港の待合室にはお灸を受ける人で賑わった。馬車が、人力車が、横山タクシー(横山作治郎所有)が、絶え間なくきよろしを運んだ。

それでも乗り切れない多くの人達が、長い行列を作り二キロメートル以上もある道のりを穴村へと歩いていた。港には、えり漁を楽しませる大型の遊覧船や釣り客で終日活気が漲っていた。

明治から大正、昭和へと時代が移り変わり、この小さな片田舎の港にも、時代の流れと共に多くのドラマが生まれていた。その後陸上交通機関の発達に伴い、船の利用客が減り、穴村港も時代の波の中に消え去った。

今では波止場の石垣と旧切符売り場の古い建物、枯れた松の木が過ぎ去った時を刻んで、なすがままに風雨に曝されている。

(『ひぼこの里 吾名邑(あなむら)』著者 石田 市蔵氏のご好意により引用)

幻の穴村鉄道

1930(昭和5)年1月16日の大阪朝日新聞 滋賀版に草津大路井の平山三郎という人が資本金十万円で穴村鉄道を設立し、草津駅-治田-笠縫を経由して穴村までの4650米に軌道バスを走らせる計画をたてて出願したというのである。この穴村鉄道は実現していないので恐らく不許可になったものと思われる。

当時穴村は墨灸で県内は申すに及ばず、京都、大阪から大勢の人達がやってきた。特に春先の菜の花や蓮華の花咲く頃は、馬車や人力車 横山タクシーがひっきりなしに走り続け、また多くの人達が志那中の穴村港から長い列をなしてやってきた。い組の石田町の道路には、遠方からやって来た大阪や京都、名古屋ナンバーの珍しいシボレーやフォードの高級車が長く列をなして駐車していた。もん屋さんの大きな門の両側には出店が並び子供のおもちゃや飲みもの等をところ狭しと並べ、穴村名物の草木の串団子が炭火で焼かれて、香ばしい匂いを漂わせていた。それこそ毎日が大賑わいであった。墨灸がよく効くといわれる二日灸、二十日灸と、日曜日の日には、お宮さんの境内や蓮華の咲く田圃にも大勢の人が休憩していた。また馬車道の喜登呂の田圃には赤いのぼりがはためいて、イチゴ狩りを楽しむ家族の姿が大勢みられた。こうしたことからして穴村鉄道バスの開通出願は理にかなっている。

穴村は古来より「灸治の里」として知られ、「近江與地志略」によれば「当村安良大明神(安羅神社)の夢想によって、此灸治を為すといえり、小児の如きに漆をもってこれを添う、人皆よしと称す云々・・・」とある。当時の穴村の墨灸は、鉄道をも誘致せんばかりの勢いであった。

(『ひぼこの里 吾名邑(あなむら)』著者 石田 市蔵氏のご好意により引用)